モテオヤジになる為に、いい人は止めて、 素直に「エロかっこよく」生きよう! 中谷彰宏著「モテるオヤジの作法」より
オヤジは「エロかっいい」を目指せ!
いい人でチャンスをいつも逃している人は一度「エロオヤジ」になってみることです。
「このエロオヤジ!!」といわれて、頬っぺたの一つもたたかれる経験をしなければ、
モテるようにならないのです。
一度はケダモノになる勇気を持ちましょう。
「ケダモノ」といわれて、褒められたような嬉しさを感じることが大切なのです。
いい女であればあるほど「強引な人が好き」なんです。
いい女には誰でもがペコペコします。
でもね~
ペコペコした男にいい女は魅力を感じないのです。
いい人は、女性に好かれようと思って、
自分の考えた「好かれるキャラ」を演じています。
それが裏目に出るのです。
女性は「私、こういう人が好き」と言っている人とは付き合いません。
「会いたいときにいつでも会ってくれる人が好き」と言われて、いつでも飛んで会いに行ったりすると、「私、忙しい人が好き」なんて、突然言われておしまいです。
我慢しないで、自分に素直に生きることです。
時には「いい人」を演じてしんどくなる時もあるはずです。
そういう時はいい人をやめて、素直に「エロオヤジ」になればいいのです。
「エロオヤジ」になるには勇気がいります。そして、嫌われる覚悟もいります。
それを乗り越えたときに、一段上の、本物の「エロオヤジ」になれるのです。
老人ホームで持てるのもエロオヤジなのです。
※オマケの歌
桜が散ったら「桜が終わった」という人は、桜を美的にとらえることができないのです。
桜には葉も幹もちゃんとあるのです。
桜は花が咲いても散っても、一年中桜なのですから。
◆モテオヤジになるために
「エロかっこよくなろう」
以上は 中谷彰宏著 「モテるオヤジの作法」より一部抜粋&加筆
「友情は生きる喜びを与えてくれるもの」田辺聖子
4月18日 今日の一言 田辺聖子
私は恋を知るより早く、
友情の良さと有難味をぜひ知って欲しいと、思う。
それは心や頭を冷やし、
かく乱させる魅力とは違うけれども、
また尽きぬ楽しみ、
生きる喜びを
与えてくれるはずのものである。
iめぇ~るより
以上は 田辺聖子著 上機嫌な言葉366日 より一部抜粋
※友情は何事にも代えがたいものである。
★田辺 聖子 (たなべ せいこ、1928年3月27日 - )は、日本の小説家。
大阪府大阪市生まれ。淀之水高等女学校を経て樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)国文科卒。恋愛小説などを中心に活動し、第50回芥川龍之介賞など数多くの文学賞を授与されている。文化勲章受章者。
◆代表作
『感傷旅行』(1964年)
『姥ざかり』(1981年)
『ひねくれ一茶』(1993年)
『道頓堀の雨に別れて以来なり――川柳作家・岸本水府とその時代』(評伝、1998年)
◆主な受賞歴
大阪市民文芸賞(1956年)
芥川龍之介賞(1964年)
女流文学賞(1987年)
吉川英治文学賞(1993年)
菊池寛賞(1994年)
紫綬褒章(1995年)
泉鏡花文学賞(1998年)
読売文学賞(1999年)
蓮如賞(2003年)
朝日賞(2007年)
文化勲章(2008年)
名誉市民
2009年 伊丹市名誉市民
◆デビュー作
『花狩』(1958年)
◆配偶者
川野純夫
略歴
1928年3月27日、大阪府大阪市に生まれる。父方は広島県福山市の出身で祖父の代から写真館を経営していた。大阪市内に生まれ、大阪の風俗文化に深く親しみながら育った事は後の作風に大きく影響を与えている。因みに北摂の新興都市については風俗文化が乏しいと評している。
幼少時は古典文学に親しみ、多くの少女小説を愛読した。戦時中は愛国心にあふれた軍国少女としての時代を過ごし、戦争で死ぬことを本望としていた。
1943年『少女の友』の作文欄で川端康成の選により掲載された「さら」が最初の活字作品。敗戦後ではその反動と喪失感から複雑な思いを抱く中、古典文学の世界に癒しを見出した。大阪の金物問屋に就職で勤める傍ら文芸同人の『文芸首都』『大阪文学』に参加、『花狩』がラジオドラマに採用され放送作家となった時期もある。
1956年『虹』で大阪市民文芸賞受賞し本格的な作家活動に入り、恋愛をテーマにした小説や大阪弁を用いた一種の方言文学の制作に取り組んだ。
1964年に『感傷旅行』で第50回芥川賞に選出され、若手女流作家の寵児となる。以降は人気作家として多くの執筆依頼を受ける様になるが、純文学の賞である芥川賞の受賞者としての立場を枷に感じ、後年に「直木賞の方が欲しかった」と冗談含みで語っている。
1987年の第97回直木賞から2004年第132回まで直木賞の選考委員を務めた。
次第に大衆小説へと軸足を移し、より身近な設定における恋愛小説や社会風刺的なエッセイなどを精力的に執筆する。
また古典文学の流れから歴史小説にも活躍の場を広げ、同じ大阪出身の歴史小説家である司馬遼太郎とも親睦を結んでいる他、自身も江戸時代の俳諧師・小林一茶の生涯を描いた『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞を受賞している。
小松左京、筒井康隆ら関西SF作家たちとの交際も長く、『おせいさんの落語』は彼らも顔負けの奔放なイマジネーションを駆使した奇想小説集であり、連作短編集『お聖どん・アドベンチャー』の題は筒井のアイディアである。
1995年、紫綬褒章を受章する(67歳)。
2006年、エッセイなどをもとに朝の連続テレビ小説『芋たこなんきん』(NHK大阪放送局制作)が作られた。
2009年には、著作をもとにした朗読劇「田辺聖子の世界」が公開され、3月30日と31日には銀座博品館劇場にて、同年の5月9日には兵庫県立芸術文化センターにて、いずれも萬田久子主演で上演された。
長年の執筆活動を称えて2000年に文化功労者、2008年に文化勲章を授与された。
人物
私生活では長年独身であったが、文学仲間の川野彰子への追悼文を寄せたことが縁でその夫で神戸で医師をしていた川野純夫と知り合う。1966年に後妻として川野と結婚し、2002年に死別するまで36年間連れ添った。
田辺のエッセイに登場し親しまれた「カモカのおっちゃん」とは、夫の川野のことである。
1976年に伊丹市へ引越し、1995年には阪神・淡路大震災を経験。後に震災時の経験をまとめた著書『ナンギやけれど…わたしの震災記』を発表する。
伊丹市からは後に名誉市民を授与され、伊丹市立図書館新本館の名誉館長に就任している。
無類のスヌーピーグッズ愛好家。
自身年来の宝塚歌劇ファンでもあり、自著『隼別王子の叛乱』『新源氏物語』『舞え舞え蝸牛 新・落窪物語』などの作品が宝塚で舞台化された実績もある。
「必殺シリーズ」のファンとしても有名で、劇場版パンフレットにエッセイを寄せたり、『必殺仕事人III』においてはその方向性に苦言を呈し、それを聞いたプロデューサーが番組内容を修正することがあった。
「美味しいもん作って、人を喜ばせる、ということは その人間に惚れたことやろ」田辺聖子
☆彡4月7日今日の一言
「美味しいもん作って、人を喜ばせる、ということは
その人間に惚れたことやろ」。
以上は 田辺聖子著 上機嫌な言葉366日 より一部抜粋
※オマケの付録
➀似たような表現が「かわいそうだたあ、ほれたってことよ」と漱石の「三四郎」に
にありますね。
小説の中でもこれは与次郎が翻訳して廣田先生に叱られるという場面でした。その原文はPity's akin to love. だと明確に示されています。
この句はサザーンという人の「オルノーコ」という戯曲の二幕二場で主人公オルノーコが口にする有名な科白だと注釈書に書いてあります。
➁「月がとってもきれいですね」とデートしている時に彼女がささやいたら
これはもう愛の告白ですね。「あなたが好きです」"I love yiu."
もうイケイケです。
月がとっても青いから♪~
電車内の化粧はマイナスエネルギーを振りまいて運気を下げている! 「見たくもない」やめようね
☆彡今日の一言
私は女のお化粧というのは、
本来、一人で鏡に向かって、
ゆっくり行うべき、
神聖行事と思うのです。
出勤前に時間がなくて
電車内で慌ただしくする人は、
もう少し早く起床してください。
なにわの夕なぎ
以上は 田辺聖子著 上機嫌な言葉366日 より一部抜粋
時々電車の中での若い女性の方の化粧を見かけますね。
見る見るうちに別人に変身していく様は驚きでもあります。
でもね♪~
電車の中での化粧というのは「みっともないこと」と感じられます。
「みっともない」とは、「見とうもない」、つまり、「見たくもない」ということです。
見たくもないことを見せられているのですから、不快に思って当然ですよね。
お化粧というのは、本来は自宅などプライベートな空間で行われるべきことなのです。
外出先で化粧直しが必要になった場合は、トイレなどでするのが作法です。
つまり、電車の中でメイクをしている時というのは、不快感を抱いた周囲の人がマイナスエネルギーを、それこそシャワーのように浴びている状態なのです。
たまったものではありません。これから試験や面接などで運気が欲しい方もいらっしゃるでしょう。
そんな人たちの運気を下げているわけです。はた迷惑な行為と言わざるを得ません。
お食事にしても、家やレストランなど、食事するための空間があるわけですから、もし電車でメイク・電車でおにぎりを食べる、などなど、みっともないことをしているのであれば、今すぐやめた方がいいと思います。
化粧は相応しいところで行い、運気を上げましょう。
「寒い朝 気合を入れて 紅をひく」 天然モテオヤジ作
昔、娘が化粧台の前で「今日も頑張んなくっちゃ」と言いながら口紅を付けて出かけて行きました。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句のモデルはモネの「日傘をさす女性」かそれとも坂本龍馬か?
立春、彼岸も過ぎました。
3月は別れのシーズンでしたが、はや4月、新学期や新年度という出会いの季節となりました。
みちのくではソメイヨシノの開花宣言が3月30日にされました。まさに新たなスタートの時です。
でもね♪~
外は風が強く吹いてさぶ~いのです。
そんな時に思い出いのが音楽で言えば「なごり雪」、「早春賦」、「春なのに♪~」、ヴィヴァルディの「四季・春」等ですが、
「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句があります。
学生時代に出会った俳句ですが新学期・新年度には必ず心に浮かんできます。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句は
『季語が「春風」で通常は「はるかぜ」と読みます。
「春風や」で句切れになり場面が転換します。』
というのが教科書的解釈でしょう。もちろん「はるかぜ」と読んで俳句のココロを感じるとることもいいと思います。
しかしこの句「春風や闘志いだきて丘にたつ」に限っては
「春風」は「はるかぜ」と読まずに「しゅんぷう」と読むのがベストだと思います。
私が意訳すると
『おお吹きすさぶ「しゅんぷう」よ、私ははこれから厳しく困難な目標に立ち向かい、挑戦していくのだ、負けはしないぞ!~』。
となります。カッコイイですね。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」はダンディズムの極みといえます。
この句「春風や闘志いだきて丘にたつ」は、いわば決意表明なのです。
自ら目標を立て、それに立ち向かうとき男の表情は自然と険しくなります。
逆境に凛として立つ青年の姿を思い浮かべますし、よりみなぎる闘志が感じられます。つい応援したくなりますね。春風は「逆境」をイメージしているのです。
逆境に対し負けないぞという闘志が感じられます。
「頑張って~」 (女性ファンの黄色い声援)
ここで「はるかぜ」と読んだのでは丘の上に立つ、長い緑の黒髪の少女をイメージしてしまいますし、力が入りませんね。
「春風(はるかぜ)や闘志いだきて丘にたつ」となると
『プチ女子力アップの為、笑顔の練習でもしようかしら』。
丘の上、ひなげしの花で♪~ (アグネスチャン)となりますよねェ~。
はるかぜそよぐ丘の上に立つ人というとやはり女性ですね。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」 を
「はるかぜ」だと少女が長いストレートヘアーを靡かせ、白いブラウスにピンク系ミモレ丈のフレアースカートがひらひらしているさまが想像されます。
私の呼びかけに手を振って「あなた~」と応えている穏やかな光景が眼に浮かびます。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」の解釈で
はるかぜは温かい&心地よい風であり、ほんわかモードで、厳しさやみなぎる闘志が感じられません。
「はるかぜ」は女性的であり、「しゅんぷう」男性的ですね。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」を「しゅんぷう」と読んでみると、肌を突き刺すような風の中、新しい目標に向かい、男が挑戦していく様は並々ならぬ決意が読み取れます。
いわば逆境に向かって不屈の闘志をみなぎらせているのです。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」の「しゅんぷう」は逆境をイメージしているのです。
心地よい春風の中に果たして「闘志」がみなぎるのでしょうか?
そんな時、ほんわかした「はるかぜ」はふさわしくなく、やはり「しゅんぷう」がベスト回答です。
「しゅんぷう」は厳しさを感じさせ、身震いさえ覚えます。
「しゅんぷう」という語感がいいですね。
ジャジャジャジャーン~、ジャジャジャジャーン~とフルトベングラーがベートーベンの第五・運命を演奏しているかのようです。
しびれますネ~。
「しゅんぷう」のココロは闘志にあり、読み解くキーワードは正に「闘志」にあるといえます。「闘志」こそが作者の思いなのです。
歴史上の人物でいうと「坂本龍馬」を思い浮かべます。大海に向かい、砂丘で日本の夜明けを夢見て叫んでいる感じですね。
「俺は負けんぜよ~」
今風にイメージするとNHK大河ドラマの「西郷どん」でしょうかね。
冒頭の山の上のシーンがまさにうってつけです。
新年度・新学期には「よし!やってやるぞ~」と勇ましく、希望に燃えて生きたいですね。
又ココロガ折れそうになった時、高浜虚子の「春風や闘志いだきて丘にたつ」 というこの句 を思い出していただきたい。
「春風や闘志いだきて丘にたつ」はきっと貴方の人生の応援歌となることでしょう。
新入生、新入社員の皆さん、良い子もそうでない子も
林先生曰く「いつやるか、今でしょ!」
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★高浜虚子(たかはま きょし)のプロフィール
高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体:高濱 虛子、1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)は明治・昭和期の俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体:高濱 淸)。
ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。
高浜 虚子: 俳人・小説家。愛媛の生まれ。本名、清(きよし)。正岡子規に師事。俳誌「ホトトギス」を継承して主宰、多くの門下を育てた。句風は客観写生・花鳥諷詠に立ち、平明で余情が深い。文化勲章受章。著「虚子句集」「五百句」、小説「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」「俳諧師」など。
1907年ころ小説や写生文を書いて一時俳壇を離れたが,のち復帰し,河東碧梧桐らの新傾向俳句を批判,〈客観写生〉〈花鳥諷詠(ふうえい)〉を説いて,俳句の伝統擁護に努めた。
経歴
愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。
1888年(明治21年)、伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。1891年(明治24年)子規より虚子の号を授かる。
1893年(明治26年)、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。
1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入するも中退、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。1895年(明治28年)12月、自身の短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも拒否(いわゆる「道灌山事件」)。
1897年(明治30年)、元来碧梧桐の婚約者でありながら碧梧桐の入院中に親密になった大畠いと(糸子)と結婚。
1898年(明治31年)、萬朝報に入社するも母の病気のため松山滞在中に長期欠勤を理由に除籍され生活に困窮する。子規の協力を得て前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。子規の没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭する。
1910年(明治43年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。以来、亡くなるまでの50年間をここで過ごした。
1913年(大正2年)、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。このとき碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいる。
同年、国民新聞時代の部下であった嶋田青峰にホトトギスの編集一切を任せる旨を表明した。
1937年(昭和12年)芸術院会員。1940年(昭和15年)日本俳句作家協会(翌々年より日本文学報国会俳句部会)会長。1944年(昭和19年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、1947年(昭和22年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。
1954年(昭和29年)、文化勲章受章。1959年(昭和34年)4月8日、85歳で永眠。墓所は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。忌日の4月8日を虚子忌、椿寿忌(ちんじゅき)という。生涯に20万句を超える俳句を詠んだ。
2000年(平成12年)3月28日、長野県小諸市に小諸高浜虚子記念館が開館。4月、兵庫県芦屋市に虚子記念文学館が開館。
■作家評
子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。
そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。
しかしまた反面、碧梧桐が亡くなった翌年の1937年(昭和12年)には嘗ての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」を詠んでいる。
俳壇に復帰したのち虚子つまり「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即ホトトギスであったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であった。
「ホトトギス」からは飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを輩出している。
■句集
『虚子句集』
『五百句』
『七百五十句』
『六百句』
『虚子俳話』
『句日記』
■小説集
『鶏頭』
『柿二つ』
『俳諧師』
『虹』
■文学館
虚子記念文学館虚子記念文学館
神戸文学館
■栄典
1959年(昭和34年)4月8日:勲一等瑞宝章
「真の青春とは若き"精神"のなかにこそある」。サミュエル・ウルマン原作、感動の詩 "Youth" 青春、新井満訳より
今日は4月1日、新学期、新年度という新しい「時」の始まりです。
学校や職場へ新しい気持ちで臨まれていることと思います。
そこでエールを送る意味で、幻の詩人とも言われている「サミュエル・ウルマン」が書いた感動の詩「青春の詩」の紹介をさせていただきます。
「青春の詩」"Youth" は、サミュエル・ウルマン が70代で書いた詩で、詩集 From the Summit of Years, Four Score に収められた作品のひとつです。
彼は1840年4月13日、ドイツのヘヒンゲンでユダヤ人両親の長男として誕生。1924年3月21日84歳でこの世を去りました。
彼は晩年に数編の詩をつくっています。
この「青春の詩」は1922年に家族が発行した詩集「80年の歳月の頂から」の巻頭の詩です。
"Youth is not a time of life; it is a state of mind"(青春とは人生のある期間を指すのでなく、心の持ち方を指すものである)とするこの詩は、若い人たちには戒めとして、シニアの方には「人生の応援歌」として必ずや役立つものと思います。
アドレナリンが体中を駆け巡っているようで、なんだか力がみなぎってきますよね。
言い換えると「青春の詩」"Youth" は人生のビタミン剤といえるでしょう。
今日は2つの訳をお届けします。➀「青春 岡田 義夫 訳」漢詩調の翻訳 と②「青春とは 自由訳 新井満」です。
両者ともそれぞれ味わい深い名訳です。
サミュエル・ウルマン Samuel Ullman の詩「 Youth 青春」
➀青春 岡田 義夫 訳
青春の詩
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、希望ある限り若く 、失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は全く に老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。
要約 「青春とは、心の若さである」
② 青春とは 自由訳 新井満
青春とは 真の 青春とは
若き 肉体のなかに あるのではなく 若き 精神のなかにこそある
薔薇色のほほ 真っ赤な唇 しなやかな身体
そういうものは たいした問題ではない
問題にすべきは つよい精神 ゆたかな想像力 燃え上がる情熱
そういうものが あるか ないか
こんこんと湧き出る 泉のように
あなたの精神は 今日も新鮮だろうか いきいきしているだろうか
臆病な精神の中に 青春はない
大いなる愛のために発揮される 勇気と冒険心のなかにこそ
青春は ある
臆病な二十歳がいる すでにして 老人
勇気ある六十歳がいる 青春のまっただなか
歳を重ねただけでは 人は老いない
夢を失ったとき はじめて老いる
歳月は 皮膚にしわを刻むが 情熱を失ったとき 精神は しわだらけになる
苦悩 恐怖 自己嫌悪
それらは 精神をしぼませ ごみくずに変えてしまう
誰にとっても大切なもの それは 感動する心
次は何が起こるだろうかと
眼を輝かせる 子供のような好奇心
胸をときめかせ 未知の人生に 挑戦する 喜び
さあ 眼をとじて 想いうかべてみよう
あなたの心のなかにある 無線基地
青空高くそびえ立つ たくさんの 光り輝くアンテナ
アンテナは 受信するだろう 偉大な人々からのメッセージ
崇高な大自然からのメッセージ
世界がどんなに美しく 驚きにみちてるか
生きることが どんなに素晴らしいか
勇気と希望 ほほえみを忘れず いのちのメッセージを受信しつづけるかぎり
あなたはいつまでも 青春
だが、もしあなたの 心のアンテナが 倒れ
雪のように冷たい皮肉と 氷のように頑固な失望に おおわれるならば
たとえ二十歳であったとしても あなたは立派な 老人
あなたの心のアンテナが 今日も青空高くそびえ立ち
いのちのメッセージを受信しつづけるかぎり
たとえ八十歳であったとしても あなたはつねに 青春
青春とは 真の 青春とは
若い 肉体のなかに あるのでなく 若き 精神のなかにこそ ある
要約:「真の青春とは若き精神のなかにこそある」
YOUTH
Youth is not a time of life-it is a state of mind; it is a temper of the will,a quality of imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love ease.
No body grows only by merely living a number of years; peoples grow old only by deserting their ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, doubt ,self-distrust, fear and despair-these are the long ,long years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.
Whether seventy or sixteen, there is in every being's heart the love of wonder, the sweet amazement at the stars and the starlike things and thoughts, the undoubted challenge of events, the unfailling childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.
you are yang as your faith, as old as doubt ;
as young as your self-confidence, as old as your fear;
as young as your hope, as old as your despair.
So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur and power from the earth, from man and from the Infinite so long as your young.
When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of pessimism and the ice of cynicism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.
※ 「青春の詩」"Youth" について
「青春の詩」の流布にはダグラス・マッカーサーが関わっている。マッカーサーは、1940年ころにジョン・W・ルイスからこの詩を贈られたという。
この詩を気に入ったマッカーサーは、マニラで、のちには東京でも、執務室の壁に詩のコピーを額に入れて掛け、また講演でもたびたび引用した。『リーダーズ・ダイジェスト米国版』1945年12月号は、"How to stay young" という記事において、マッカーサーの執務室にかけられているというこの詩を紹介した。
二次大戦終戦後、1945年9月27日に昭和天皇が,日比谷の占領軍総司令部にマッカーサー元帥を訪問した。天皇がマッカーサー元帥と並んでツーショット写真を取られた部屋の壁に掛けられていた詩が、この青春の詩(英文)であった。
この詩を、ある日、岡田義夫氏が発見し、感動し、漢詩調に翻訳した。
岡田義夫氏はデスクの前の壁に貼っていた。
それをたまたま訪ねてきた親友の森平三郎氏が写し取って帰った。
後年、森平三郎氏が郷里の桐生の新聞に「青春」を紹介すると読者の感動を呼び「青春」は静かなるブームとなりました。
とりわけ財界人は心を動かされた。
後に松下幸之助氏の目に止まり、あるインタービューでこの「青春の詩」を紹介し、雑誌に掲載され一躍有名になった。
ここにおいて「青春」はメジャーデビューとなったわけですね。
又、ロバート・ケネディーがエドワード・ケネディーへの弔辞にこのウルマンの詩の一節を引用したのも有名な話である。
★サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman, 1840年4月13日 - 1924年3月21日)は、アメリカの実業家・詩人・人道主義者。彼の名は詩 "Youth"(日本では「青春」あるいは「青春の詩」と訳される)でよく知られている。
生涯
1840年、ドイツ・ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン公国 (Hohenzollern-Hechingen) のヘヒンゲン(英語版)(現在はバーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン行政管区ツォレルンアルプ郡に属する町)において、ユダヤ人の両親のもと生まれる。ウルマンの一家は1851年にアメリカに移住し、ミシシッピ州ポートギブソン (Port Gibson, Mississippi) に定住した。
1861年に南北戦争が勃発すると、ウルマンはアメリカ連合国陸軍(南軍)に兵士として従軍するが翌年に除隊]。1865年にミシシッピ州ナチェズに移り住んだ。
ウルマンはここで商売をはじめ、1867年にエマ・メイヤー (Emma Mayer) と結婚した。夫妻の間には8人の子が生まれ、6人が成長した。また、ウルマンは市会議員を務め、また地元の教育委員会の委員となった。
1884年、ウルマンの一家はアラバマ州バーミングハムに移住。自治体として設立されて間もないこの若い町で、ウルマンは金物の小売店をはじめ、続いて不動産業も兼営した。ナチェズで商業や教育に指導的な役割を果たしたことは知られており、1884年にはバーミングハム市教育委員会の委員に選出、1893年には委員長となった。
18年間の教育委員在任中、彼は黒人教育に関心を寄せ、黒人にも白人と同じ教育を行うことが教育的にもプラスになると主張した。このほか、病院の設立など、ウルマンは多くの地域社会活動に携わった。
市のユダヤ教改革派のエマヌエル教会において、信徒団の長を務め、1890年にはレイラビ(lay rabbi, 精神指導者、在俗のラビ)になっている。ナチェズやバーミンガムにおける宗教的・教育的・社会的活動は、しばしば議論を招いたものの、敬意を払われる足跡を残した。
ウルマンは引退後、多くの時間を趣味(手紙やエッセイや詩の執筆)に注いだ。彼の詩や詩的なエッセイは、愛、自然、信仰、あわただしいライフスタイルの友人、そして「若く」生きることといった、さまざまな題材を扱っている。1920年4月、80歳の誕生日を記念して、それまでに書き溜められた詩を集め From the Summit of Years, Four Score『80年の歳月の頂から』が家族の手によって自費出版される(出版年については1922年とも)。1924年、アラバマ州バーミングハムにおいて死去。