天然モテオヤジのハミング日記

ある日の出来事、暦・記念日、話題、情報、雑感や生き方、ライフスタイル等をそこはかとなく綴っている自己啓発・開運ブログです。

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「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句のモデルはモネの「日傘をさす女性」かそれとも坂本龍馬か?

 立春、彼岸も過ぎました。

3月は別れのシーズンでしたが、はや4月、新学期や新年度という出会いの季節となりました。

みちのくではソメイヨシノ開花宣言が3月30日にされました。まさに新たなスタートの時です。

でもね♪~

外は風が強く吹いてさぶ~いのです。

 

そんな時に思い出いのが音楽で言えば「なごり雪」、「早春賦」、「春なのに♪~」、ヴィヴァルディの「四季・春」等ですが、


「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句があります。

 

学生時代に出会った俳句ですが新学期・新年度には必ず心に浮かんできます。


「春風や闘志いだきて丘にたつ」という高浜虚子の俳句は

『季語が「春風」で通常は「はるかぜ」と読みます。
「春風や」で句切れになり場面が転換します。』

というのが教科書的解釈でしょう。もちろん「はるかぜ」と読んで俳句のココロを感じるとることもいいと思います。

しかしこの句「春風や闘志いだきて丘にたつ」に限っては

「春風」は「はるかぜ」と読まずに「しゅんぷう」と読むのがベストだと思います。

 

 

私が意訳すると
『おお吹きすさぶ「しゅんぷう」よ、私ははこれから厳しく困難な目標に立ち向かい、挑戦していくのだ、負けはしないぞ!~』。

となります。カッコイイですね。

「春風や闘志いだきて丘にたつ」はダンディズムの極みといえます。

この句「春風や闘志いだきて丘にたつ」は、いわば決意表明なのです。

自ら目標を立て、それに立ち向かうとき男の表情は自然と険しくなります。

逆境に凛として立つ青年の姿を思い浮かべますし、よりみなぎる闘志が感じられます。つい応援したくなりますね。春風は「逆境」をイメージしているのです。

逆境に対し負けないぞという闘志が感じられます。

 

「頑張って~」 (女性ファンの黄色い声援)

 

ここで「はるかぜ」と読んだのでは丘の上に立つ、長い緑の黒髪の少女をイメージしてしまいますし、力が入りませんね。

「春風(はるかぜ)や闘志いだきて丘にたつ」となると

『プチ女子力アップの為、笑顔の練習でもしようかしら』。

丘の上、ひなげしの花で♪~ (アグネスチャン)となりますよねェ~。

はるかぜそよぐ丘の上に立つ人というとやはり女性ですね。

「春風や闘志いだきて丘にたつ」 を
「はるかぜ」だと少女が長いストレートヘアーを靡かせ、白いブラウスにピンク系ミモレ丈のフレアースカートがひらひらしているさまが想像されます。

 


「散歩、日傘をさす女性」―クロード・モネに寄せて


私の呼びかけに手を振って「あなた~」と応えている穏やかな光景が眼に浮かびます。

「春風や闘志いだきて丘にたつ」の解釈で
はるかぜは温かい&心地よい風であり、ほんわかモードで、厳しさやみなぎる闘志が感じられません。

 

 「はるかぜ」は女性的であり、「しゅんぷう」男性的ですね。

 

「春風や闘志いだきて丘にたつ」を「しゅんぷう」と読んでみると、肌を突き刺すような風の中、新しい目標に向かい、男が挑戦していく様は並々ならぬ決意が読み取れます。

いわば逆境に向かって不屈の闘志をみなぎらせているのです。

 

「春風や闘志いだきて丘にたつ」の「しゅんぷう」は逆境をイメージしているのです。


心地よい春風の中に果たして「闘志」がみなぎるのでしょうか?

そんな時、ほんわかした「はるかぜ」はふさわしくなく、やはり「しゅんぷう」がベスト回答です。

「しゅんぷう」は厳しさを感じさせ、身震いさえ覚えます。

「しゅんぷう」という語感がいいですね。

 

ジャジャジャジャーン~、ジャジャジャジャーン~とフルトベングラーがベートーベンの第五・運命を演奏しているかのようです。

しびれますネ~。

 

「しゅんぷう」のココロは闘志にあり、読み解くキーワードは正に「闘志」にあるといえます。「闘志」こそが作者の思いなのです。

歴史上の人物でいうと「坂本龍馬」を思い浮かべます。大海に向かい、砂丘で日本の夜明けを夢見て叫んでいる感じですね。

 

「俺は負けんぜよ~」

 

今風にイメージするとNHK大河ドラマの「西郷どん」でしょうかね。

冒頭の山の上のシーンがまさにうってつけです。


新年度・新学期には「よし!やってやるぞ~」と勇ましく、希望に燃えて生きたいですね。

 

又ココロガ折れそうになった時、高浜虚子の「春風や闘志いだきて丘にたつ」 というこの句 を思い出していただきたい。

 

「春風や闘志いだきて丘にたつ」はきっと貴方の人生の応援歌となることでしょう。

新入生、新入社員の皆さん、良い子もそうでない子も

 

林先生曰く「いつやるか、今でしょ!」

 

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高浜虚子(たかはま きょし)のプロフィール
高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体高濱 虛子、1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)は明治・昭和期の俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体高濱 淸)。
ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。

高浜 虚子: 俳人・小説家。愛媛の生まれ。本名、清(きよし)。正岡子規に師事。俳誌「ホトトギス」を継承して主宰、多くの門下を育てた。句風は客観写生・花鳥諷詠に立ち、平明で余情が深い。文化勲章受章。著「虚子句集」「五百句」、小説「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」「俳諧師」など。
1907年ころ小説や写生文を書いて一時俳壇を離れたが,のち復帰し,河東碧梧桐らの新傾向俳句を批判,〈客観写生〉〈花鳥諷詠(ふうえい)〉を説いて,俳句の伝統擁護に努めた。
経歴
愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。
1888年明治21年)、伊予尋常中学(現在の愛媛県松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。1891年(明治24年)子規より虚子の号を授かる。
1893年明治26年)、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。
1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入するも中退、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。1895年(明治28年)12月、自身の短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも拒否(いわゆる「道灌山事件」)。
1897年(明治30年)、元来碧梧桐の婚約者でありながら碧梧桐の入院中に親密になった大畠いと(糸子)と結婚。
1898年(明治31年)、萬朝報に入社するも母の病気のため松山滞在中に長期欠勤を理由に除籍され生活に困窮する。子規の協力を得て前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。子規の没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭する。
1910年(明治43年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。以来、亡くなるまでの50年間をここで過ごした。

1913年(大正2年)、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。このとき碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいる。
同年、国民新聞時代の部下であった嶋田青峰にホトトギスの編集一切を任せる旨を表明した。
1937年(昭和12年芸術院会員。1940年(昭和15年)日本俳句作家協会(翌々年より日本文学報国会俳句部会)会長。1944年(昭和19年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市疎開し、1947年(昭和22年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。
1954年(昭和29年)、文化勲章受章。1959年(昭和34年)4月8日、85歳で永眠。墓所鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。忌日の4月8日を虚子忌、椿寿忌(ちんじゅき)という。生涯に20万句を超える俳句を詠んだ。
2000年(平成12年)3月28日、長野県小諸市に小諸高浜虚子記念館が開館。4月、兵庫県芦屋市に虚子記念文学館が開館。
■作家評
子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。
そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。
しかしまた反面、碧梧桐が亡くなった翌年の1937年(昭和12年)には嘗ての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」を詠んでいる。
俳壇に復帰したのち虚子つまり「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即ホトトギスであったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であった。
ホトトギス」からは飯田蛇笏、水原秋桜子山口誓子中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを輩出している。

■句集
『虚子句集』
『五百句』
『七百五十句』
『六百句』
『虚子俳話』
『句日記』
■小説集
『鶏頭』
『柿二つ』
俳諧師
『虹』
■文学館
虚子記念文学館虚子記念文学館
神戸文学館
■栄典
1959年(昭和34年)4月8日:勲一等瑞宝章

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